ainfa19の日記

ボケ防止のためにブログ始めます

人への信頼、辞めます

人は理解し合えない、から始めよう

 


世の中というのは人への信頼みたいなものをすごく大事にしてきていると思う。TVでよく見る政治家への信頼。いつも同じ職場で顔を合わせる知人への信頼、大学時代からの友人への信頼、18年間一緒に暮らしてきた家族や兄弟への信頼。


しかし、思うのはどれだけ優秀で人格者だと思った人でも、歳をとれば思考も鈍るし、判断力も鈍り、技術も体力も衰え、時代から段々と取り残されていくものでとある。


高齢化し思考が鈍った時、間違った判断をするような権力を握った存在は、本来であれば最も信頼をおいてはいけないようにも思える。


もう一つ、ぼくたちが勘違いしていると思うのは、人は等しく人だと思っていることだ。

というのは人は頭があって、目、鼻、口、腕が二本あり、その先には五本指の手があって、胴体があって、二本足で立っている。似たような形状をしているから、一括りにして人間だと思っているが、よくよくその個人を見ていくと明らかに性格も違い、声も違い、考えも、そこから至る行動までも違う。


それを同じ人間ぽいからと言って、お互いを理解できるはずだとか、同じ結論に辿り着けると勘違いしているような気もする。


この勘違いの連続が、世の中の人間関係のあらゆる問題と混沌を作り出してしまっている1番の要因なのかもしれないと、ふと思うのである。

 

 

戦争

 

今回のロシアとウクライナの戦争を見て、人類というものは科学的な進歩はするものの歴史的には進化はしない生き物であると、その業に縛られた存在であると見せつけられた。

人類は長い歴史に渡り、研究し学び、戦争という失敗をしないよう取り組んできたと思っていた。しかし、人間の寿命は短く、せいぜい100年くらいしか世の中を観測できない。

 

ここからわかるのは歴史の継承は非常に困難で、

信念や思想は代が重なるごとに忘却されていくものであるという気がし、歴史はどうやら螺旋状に同じことが繰り返されてきているように見える。

 

これまでの人類が千年単位で平和を維持できた歴史がないように、数百年という単位で同じような歴史が、その時代をバックグラウンドにして行われ続けるというのが、人類の限界点なのかもしれない。

 

 

人間、辞めたい


ただこれが人類という種族の特徴であり、人間が各地で人類についてその時代ごとにあらゆる成果を果たしたとしても変わりようのないものなのだとしたら、人間というくだらない生き物として生まれてきたことに落胆しながら、残りの人生を謳歌しよう、ということが結論となってしまう。


ただその考え方では自らの内外にディストピアを創りかねないので、肯定的な立場をとって、

自らが1人の人間の個体として、どう周りの同種に見える人間たちと関わりを持つことが適切なのか、ということを考えてみたい。


人への信頼をゼロベース化し、自分とは違う生物との対話において、どうすれば意見交換が可能なのか、というところからスタートしたい。


人への信頼を辞めてみることから始めるために、相手への信頼を測る時、実績や関わった時間でそれを何となく測る癖を、何も根拠もないことを再認識していこうと思います。

できれば他人への信頼を辞めることができたら、自分への信頼も辞めていきたいなと思います。